正常性バイアス
正常性バイアスとは、心理学用語の一つで、深刻な事態でもそれを異常事態と受け止めず、正常範囲のことのように軽く捉える心理を指すらしい。
何か起こるたびに反応していると精神的に疲れてしまうので、人間にはストレスを回避するために自然と脳が働き、心の平安を守る作用が備わっているという。
例えば災害が起きたとき、明らかに異常事態なのに、自分は大丈夫だ、自分に限って死ぬなんてありえない、と思いこんでしまうような状態。
少し意味は違うかもしれないけど、上手くいかなかったテストの時、大好きな人に振られた時、日常的にピンチに見舞われた時、わたしは小さい頃から、自分に限っては大丈夫、自分に限ってそんな不幸なことになるはずがない、切り抜けられる、そう思って生きてきた。
これも正常性バイアス?
そして結婚だって昔から、何の根拠もないのに大人になったら必ずすると思っていたのだ。
できる、できない、ではなく、結婚なんて当たり前にするものだと思っていた。
ついこの間まで、まさか自分が結婚できないなんて考えたこともなかった。
今年で25歳。
ふとした時、もうとっくに大人と言われる年齢になっていることに気づいた。
22歳、23歳はなんとなく、まだ大人になりきれていない年頃な気がする。
25は四捨五入で30だ。
さすがにもう大人になってしまった。
果たして自分は結婚できるのだろうか。
出会いもないし、出会おうと努力もしていない。
正直、長く付き合っていた彼氏と結婚するんだろうなと心のどこかで思っていた。
別れてしまった今、復縁してゴールインできる望みは薄い。
日本人の女性の28歳の未婚率は54.0%、29歳の未婚率は47.4%らしい。
29歳になった時には未婚者より既婚者の方が多いのである。
29歳まであと3年半。
何をそんなに焦っているんだと思うかもしれない。
けれど、1人で生きていけるようになりたいと言いつつも、1人が怖いのだ。
独身に怯えて生きるのは嫌だと言いつつも、独身に怯えているのだ。
25歳になって、これまでの人生の中で1番孤独を感じている。
誰に話しても理解してもらえないのではないかという心細さ、ずっと1人で生きていくことになったらという不安、25歳は孤独な年だ。
後悔することが怖い
私は今人生の岐路に立っている。
二十歳の時入社して、5年半働いてきた職場を辞めようとしている。
これまでも辞めようとしたことは何回もあった。
それこそ、1年目の最初の3ヶ月は毎日辞めたいと思っていたし、1年が経つまでは、3日に一度は辞めたいと思っていた。
せめて1年は続けようと必死に働いていたら、気づけば5年と半年が経っていた。
漠然といつかは辞めると思いながらも、なんだかんだここまで働いてきて、ようやく後輩もでき、居心地の悪くない立ち位置まで来てしまった。
何故、私は辞めたいのか。
1番の理由は、時間である。
何より、無駄な時間が多いのだ。
その時間をもっと他の有意義なことに使いたい、そう思ったからだ。
ただ、5年半働いていると、情が生まれるし、恩だって感じている。
私が辞めることによって、職場のみんなに迷惑がかかるし、仕事が増え、大変な思いをさせてしまうかもしれない。
しかし、これは私の人生なのだ。
他の人が困ろうが、私の人生なのだから好きにすればいい。
ただ1つ怖いのが、後悔する事だ。
今はこんなに辞めたいと思っていても、辞めた後に辞めなければよかったと後悔することがもしあったら、と考えるととても怖くなる。
この数日は、後悔するかしないかを天秤に掛け、自分なりにたくさん悩んでみた。
思い返してみると、今までの人生でしてきた後悔のほぼ全てが、やらなかったことへの後悔だった。
何かをして、しなければよかったという後悔より、何もしなかったときの、あの時しておけばよかったな、という後悔の方がたくさんあった。
私ももう20代前半が終わり後半に差し掛かっている。
自分の人生を見つめ直し、今後どうやって生きていくか、真剣に考え始めなければいけない歳になる。
きっと、人生はあっという間なのだから、これ以上後悔している暇はない。
こういう時は自分の直感に従うのが1番良い。
自分を信じて、突き進むしかないのだ。
付き合わない両思い
高校入学前、選択授業を決める手紙が送られてきた。
書道、音楽、美術、この3つから選ばなければならない。
第二希望まで希望を書くようにと書いてあった。
私は、第一希望『美術』、第二希望『美術』で出した。
美術以外本当に興味がなかったのだ。
音楽を聴いたり、楽器の演奏は好きだけど、みんなの前で歌ったりするのは好きじゃない。
書道も、一生懸命書いた自分の作品に、上から朱色の墨汁で直されるのも嫌いだった。
第一、第二どちらの希望も『美術』と記入した後、少し考えた。
美術以外考えられなかったとはいえ、二つ希望を書くように言われているのに、どちらも美術にして提出するなんて少し反抗的なことを入学前にしてしまうことは抵抗があったけれど、万が一興味のない音楽や書道になってしまったらと考えると、そのまま出してしまった。
入学してから知ったが、選択授業で1番人気がなく人数が少なかったのが『美術』だった。
そのため、2クラス合同の選択授業なのに中々の少人数で、1クラス分もいないくらいの人数だった。
高校1年生の頃は、同じクラスで美術を選択した人がとても少なく、仲良い友達達はみんな音楽か書道だった。
美術はもともと好きだったし、仲の良い友達もいないし、黙々と絵を描いていた。
正直、美術は好きで自分から選択した訳だけど、やはり周りが友達と談笑しながら絵を描いて過ごしている中、1人で作業するのは楽しくはなかった。
(2年生になってからは、クラス替えをして仲良くなった友達は2人とも偶然にも選択が美術で、とても楽しかった。席も自由だし、先生も優しくユーモアのある先生で、休み時間の延長のような楽しい時間だった)
ある日、選択授業の時間、1人で真剣に油絵を塗っていると、背を向けて後ろに座っていた男の子から何か話しかけらた。
何て話しかけられたか詳しくは覚えていないけれど、それ以降美術の授業で度々話すようになった。
軽音部に入っている、同じクラスの男の子だった。
夏終わりに、友達を通じてメールアドレスを聞かれて、メールのやり取りをするようになった。
男の子からメールアドレスを聞かれるなんて、初めての経験でとても嬉しくてワクワクしたのを覚えている。
教室でもたまに話したり、メールは数日に1回していたし、どんどん気になる存在になっていった。
そんなとき、高校生になって初めての文化祭があった。
彼もバンドを組んでいたし、たまたま友達が軽音部だったこともあり、軽音部のライブを見に行くことになった。
1年生の中で、1位2位を争うレベルらしく、お客さんがたくさん集まっていた。
彼は、4人組バンドのギターボーカルだった。
たしか、この時はBUMP OF CHICKENの『ガラスのブルース』や『天体観測』を歌っていたと思う。
正直、かなりかっこよかった。
いつもの10倍くらいかっこよくみえた。
この時点で、気になる存在から、好きな人に変わっていたと思う。
その後、テスト期間前にメールをしていた時、好きな人がいるか聞かれた。
正直、これはきたと思った。
わたしは、いるよ、そっちは?と送った。
俺もいるよ、というようなことが返ってきた気がする。
好きな人って誰?と返した後、ドキドキしながら勉強机に座って、何度もメールセンター問い合わせをした。
数分後返ってきたメールには、わたしの名前がかいてあったのだ。
人生初の両思い、死ぬほど嬉しくて、私は携帯をベッドに放り投げた。
はしゃいだ末、いろいろな友達に即報告をした。
そして私も、好きな人とは彼のことだと伝えるメールを送った。
問題はこの後だ。
普通このようなやり取りの後は、付き合うという流れになるのが自然だと思う。
けれど、彼からの返事は予想だにしないものだった。
「好きだけど今は付き合えない。」
私の頭はクエスチョンマークでいっぱいである。
全く意味がわからなかった。
男女が、お互いを好きで、気持ちが通じたのならば、普通はお付き合いに至るのではないか?
15年間彼氏がいなかった私には、恋愛経験がなさ過ぎて、理解ができず、結局その彼とはそこでメールが終わってしまった。
その後、2年生になり、クラスが分かれてからは、接点があまりなくなり、話すこともなかった。
けれど、クリスマスライブ、バレンタイデーライブ、文化祭のライブ、と高校2年生になっても、彼氏ができても、高校3年生になっても、ライブだけは何となく見にいっていた。
友達が出るから、という口実のもと、彼のバンドの出番の時間もチェックして、しっかり見ていた。
歌っている時の彼は本当にうまくて、かっこよかった。
私の後ろでは、後輩であろう女の子が何人か泣いていた。
その後、高校3年生になった時、一度だけメールのやり取りをした覚えがある。
内容はよく覚えてないが、何通かやり取りして、それっきり何もなく高校を卒業した。
そんな彼は、今わたしの彼氏である。
あの時、好きだけど付き合えない、の真意は何だったのか、4年後に知ることになるとは思っていなかった。
その時の話はいつかまた。
と、ここまでおととい書いていて、昨日更新しようとしていたら、振られた。
人生楽ありゃ苦もあるさ
高3の春人生初の失恋
前記事で書いたように、私は高校2年の冬に初めて彼氏ができた。
何もかもが新鮮でキラキラしていて、これがリア充(もう死語?)というものなのかと毎日ウキウキしながら過ごしていた。
春休みには、お花見に行った。
初の彼氏に浮かれていた私はお弁当を作った。
可愛らしい小さなお弁当箱ではなく、何を思ったのか、四角い大きな3段の重箱弁当。
海老フライや唐揚げは父に協力してもらい、卵焼きやウインナーは母に協力してもらい、自分で作ったのは、ノリ弁、デザートのフルーツのみだった。
あの頃は、大きいお弁当箱にたくさん作れば喜んでくれると本気で思っていたのだ。
彼は喜んで食べてくれていたが、今思えば少し引いていたのかもしれない、、、。
学校の遠足では横浜へ。
夕方に現地解散で、カップルたちはそれぞれ横浜デートに繰り出していた。
わたしも例外ではない。
何をするでもなく、ただひたすら一緒に歩いているだけで幸せだった。
高3の頃は選択授業の時間が増え、ほとんどの人が週に2回は午後の授業がなく、自由な時間が多かった。
放課後は自転車に2ケツしていろんなところへ行った。
彼の家で、映画を観てたこ焼きパーティーをしたこともあった。
当時高校生の間で爆発的に流行っていたウィルコム。
毎日寝る前に電話をしながら寝落ちするのが日課だった。
初めての彼氏で、初めてのことばかりで、わからないことだらけだったが、周りの友達にアドバイスをもらい、それなりに楽しんでいたんだ。
でも、幸せはそう長くは続かないのだ。
お互い将来の夢が同じで、同じ学校に通おうと、夏になったら学校見学に行こうと話していた矢先、振られた。
夏が始まる前だった。
元カノが忘れられないと言われた。
後々よく聞くと、私と付き合う前に彼と付き合っていた彼女が、自分から彼を振ったくせに、私と付き合っているのをみて、やっぱり未練があると彼に話をしたらしい。
人生初の失恋、何も考えられないし、どうしたら辛さが薄まるのかもわからず、ただただ途方に暮れ、泣くことしかできなかった。
周りの友人は、たくさん話を聞いてくれ、慰めてくれたが、大きく開いた心の穴が簡単に埋まることはなく、私はかなりの年月彼のことを引きずった。
学校に行けば彼がいる。
この前まで、私の事を大切だと言ってくれていた彼は、もう私の彼氏ではない。
そして、なんと不幸なことに、彼の元カノは私と同じクラスで、しかも私の後ろの席だった。
学校に行くのが辛くて仕方なくて、本気で隕石が落っこちてきて地球が滅亡しないものかと願っていた。
寝ても覚めても考えるのは彼のことばかり。
失恋ソングなんて聴きたくもないし、ドラマ、映画、どんなものを観ても、心が癒されることはないし、むしろ辛くなるだけだった。
2ケツで走った学校から彼の家への道、お昼を一緒に食べた校舎裏、2人でよく行ったファーストフード店、思い出せばだすほど泣けてきた。
彼が大好きなアーティストの曲は、いつしか私の大好きな曲になっていた。
正直、あの夏前の振られた時期の記憶があまりない。
辛すぎて、心が忘れようと記憶を消してしまっているんだと思う。
こんなに失恋が辛いと思わなかった。
そして、この先彼を超えるくらい好きになれる人なんていやしないと本気で思っていた。
数年経った今、私は当時のことを懐かしいなと微笑ましく思えるようになっている。
時間が解決してくれるというのは、本当だった。
あの時の幸せだった気持ちも、辛かった気持ちも、全てが今の私をつくっている大事な経験だったと思えるようになった。
あんなに辛くて辛くて仕方なかったあの気持ちも、今となってはいい思い出になっているんだから、時間というものは偉大だなと思う。
ちなみに、卒業した後、彼とはあえて違う学校に進んだ。
ただ、なんという偶然か、学校行事で行った先で何度か彼に会う機会があった。
広い会場で、たくさんの人がいる中で、何故だか私はすぐに彼を見つけられた。
「私と別れた後、一瞬でも別れたことを後悔したことはあった?」
図々しいことに、2回目に偶然会ったとき、私は彼にそんなことを聞いた。
「あったよ」
それを聞いた時、やっと前に進めた気がした。
その言葉が嘘だったとしても、そう答えてくれた彼に感謝している。
その言葉のおかげで私は前に進めたのだ。
初めて彼氏ができた日
わたしに初めて彼氏ができたのは、高校2年生の冬。
多分、周りと比べたらとても遅い方だった。
中学3年間は部活に全てを捧げていたし、好きな人がいても自分なんかが付き合えることはないと思っていたのだ。
そして、高校生になったら自然と彼氏はできるもんだと思っていた。
当時mixiが流行っていて、中高生はほぼみんなやっていたように思う。
全然話したことがない他クラスの人でも、なんとなく友達申請が来れば承認するし、話したことがないけどmixiでは繋がっている、なんて人も結構いた。
わたしの記念すべき初彼氏は、隣のクラスの背の高いサッカー部の人だった。
サッカー部なんて、イケてる連中の集まりだと思っていた。
まず、サッカー部というだけでモテる気がする。
ちなみにわたしはバスケ部男子が好きだ。
野球部ほど真面目ではなく、サッカー部ほどおちゃらけていない、なんていう勝手な偏見だけど、、
彼とは何人か共通の友達がいて、mixiで繋がっていた。
彼の地元の女友達の通ってる高校での友達が、私の地元の友達だったのだ。
彼から、たしかメッセージが来た。
彼は私の地元の友達のことが気になっていて、その子と仲良いの?というような内容だった気がする。
でも、わたしの友達には当時好きな人がいて、彼のことは眼中になかったようだ。
いつしかわたしはメールアドレスを交換して、彼の相談にのるようになっていた。
ただ、メールでやりとりはするものの、実際に会話したことはなかった。
たまたまわたしの選択授業の移動教室が彼のクラスで、私の座る席の前の席が彼の席だった。
授業が終わり、彼が教室に戻ってきた時初めて彼と話した。
たしか、「じゃがりこ好き?」そんなことを聞かれたのが1番最初だったと思う。
もう10年近く前の話だから、詳しいことは覚えていないが、相談にのってあげたお礼でお菓子をくれた、ような感じだった気がする。
選択授業のある日は、授業が終わり、教室に戻ってきた彼がじゃがりこをくれた。
毎回もらってばかりだと申し訳ないからと、私もトッポやらポッキーなど用意して、お菓子交換のようなことをしていた。
週に一度の選択授業の日は、彼とお菓子交換をして、少しだけ話せる日になった。
最初はただ仲良くしてくれる男の子、というだけで、特別好きなどという気持ちはなかった。
ただ、高校2年生の思春期の女子なのだ。
そのうちお菓子交換だけでなく、廊下ですれ違ったときに手を振り合ったり、放課後一緒にマックに行ったり、そんなことを繰り返すうちに自然と意識するようになり、彼のことを好きになっていることに気づいた。
ちょうどその年はうるう年で、4年に一度しかない2月29日、その日も放課後遊ぶことになっていた。
雪が降っていて、とても寒かったのを覚えている。
放課後、下駄箱の所で待ち合わせをして、高校の最寄りの駅から2つ先の駅まで自転車の2ケツで向かい、マックでいつも通り楽しく喋って、帰りは最寄りの駅までまた自転車で送ってもらった。
いつもなら、ありがとうまたね!と言ったようなことを言ってバイバイするのだが、その日は違った。
彼が私のことを好きと言ってくれたのだ。
人生初の両想いだった。
とても嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
全く実感が湧かず、たくさんの友達に報告のメールをした。
4年に一度しかない日に、雪が降り、告白されてはじめての彼氏ができる、、
全てがロマンチックだった。
地元の駅に着いてもフワフワした気持ちで、雪が降る中、傘もささずスキップをしながら帰ったのを覚えている。
10年近くたった今でも色褪せることなく、鮮明に覚えている3つ前のうるう年の2月29日、あの日は間違いなく私の人生の中での最良の日のひとつに入る。
綺麗事の話
ろくに話も聞かず、「そんなのただの綺麗事だよ」とバッサリ言い捨てる人が苦手だ。
綺麗事で何が悪い?
それを綺麗事と思わず本気で思っている人もいるのに、人の考えを否定する人、なんなんだろう、、、。
例えば、よく話題になることで言うと、『愛』か『お金』か、どちらが大事か。
わたしはこの歳になっても、声高々に『愛』と答える。
他の誰かからすると綺麗事なのかもしれないけど、わたしは綺麗事だろうがなんだろうが、『お金』より『愛』だと本気で思っている。
それを綺麗事の一言で否定して、現実的ではないだのわかってないだの言う人は本当に苦手だ。
自分の考えと違うからって相手のことを小馬鹿にしたりする人、なんてかわいそうなんだろうと思う。
思い出の曲
曲を聴くと、過去にその曲を聴いていた頃の懐かしい気持ちが急に押し寄せてくる。
例えば、社会人1年目の仕事辞めたい期真っ只中にひたすら聴いていた、フジファブリックの『若者のすべて』なんて、今聴いてもとても嫌な気持ちになる。
初めて付き合った人がよく歌っていた曲、TEEの『ベイビーアイラブユー』、彼の部屋で一緒に観た映画パラダイスキスの主題歌、聴いた途端にあの頃の甘酸っぱい気持ちが蘇ってくる。
先日不意に、別れてもう半年以上も経つ前の彼との思い出の曲が、音楽をシャッフルで聴いた時に流れてきた。
とっくに忘れていたし、踏ん切りもついたつもりだったのに、懐かしさと切なさと何ともセンチメンタルな気持ちになってしまった。
「懐かしい」って、良くも悪くも時間が経てば、嫌な気持ちにはならない。
その時はすごく嫌な事だったとしても、「懐かしい」と思えた時、全てが良い思い出に変わるんだろうな。
曲を聴いて「懐かしい」と思えた私は、きちんと前に進めていたんだなとホッとした。
ホッとしたと共に、あんなに泣いて悲しかった気持ちが消えてしまったことを少し寂しくも思った。
けれど、「懐かしい」と同時に「切ない」とも思ってしまったから、良い思い出だったと思えるまで、あと少し時間が必要なのかもしれない。
曲と記憶の関係性ってなんなんだ?